奈保子さんの音楽


河合奈保子さんの音楽について
〜五輪真弓さんとのデュエット「恋人よ」を聴いて感じたこと〜




奈保子さんの音楽を一言で表すとしたら、私なら「きれいな心の発露」と答えます。

奈保子さんが、五輪真弓さんと「恋人よ」をデュエットした映像があります(1986年のミュージックフェア)。ここには、奈保子さんの音楽へのスタンスが、とてもわかりやすい形で示されているように思います。

五輪真弓さんの「恋人よ」。五輪さんの代表曲のひとつであり、1980~81年にかけての大ヒット曲です。どうしたって、五輪さんが歌っている、そのイメージで曲を思い描くことになります。

奈保子さんが凄いのは、五輪さん独特の歌い回しや言葉のさばきが持つ強烈なキャラクターをいったん拭い去り、楽譜に記されている音符と言葉という、音楽のもっとも大切な原点に立ち返っていることです。否、私には断定はできません。でも、そう考えなければ、ここでの奈保子さんの音楽を聴取するのに辻褄が合わないのです。

ピアノを弾く凛としたお姿、鍵盤の上で優雅に踊る両手の指からカメラがゆっくりと動いて映してゆく横顔、その静かな横顔の美しいこと・・・。ああ、言いたいことはいっぱいあるのですが、ここでは音楽の話に絞りますね。

奈保子さんの歌を聴きましょう。1番は奈保子さんのソロ。なんという透明な美しさでしょうか。至純の響き、と言ってもいいかもしれません。ここには、「誰誰のなになに」という記名性の勝ったような音は一音たりとも存在していません。ただただ、きれいな音がそこに鳴っていて、その音を出しているのが河合奈保子である、というだけです。

敬愛する作曲家である三善晃さんは、かってこのような文章を書いていらっしゃいました。『女声はそれをある色調の、ある記憶が介在する光景として描いてくれる媒体だった。男声は、そうではない。男声では、言葉が言葉として穿たれるだろうから、「雲は死に」で雲は死ぬ。錯乱の糸はそのまま刻印されるだろう。』男声には絶対に真似することのできない、女声だけが可能とする「表現の抽象化」について語られた文章です。

私はこの三善晃さんの文章を、奈保子さんが来生たかおさんのカバーを歌っているとき、それを聴いているとき、よく思い出していました。来生さんご本人が歌ったのとまるで印象が違うのです。「ある色調の、ある記憶が介在する光景として描いてくれる媒体」に、まさに奈保子さんがなっている。そこには、生ではない、抽象化された世界が広がっていきます。

五輪さんの歌い方には、男声的なリアリティーがあり、生々しさがある。三善晃さんの表現を借りれば、「言葉が言葉として穿たれる」。その迫力によって、五輪さんは私たちの心を鷲掴みにしてしまうわけです。

奈保子さんは、その強い磁場を持つ「五輪ワールド」から一度外に出てみた。耳をすまして、楽譜に向かい、そこから響いてくる音に集中した。“音楽の核”とも言えるその音を見つけ、大切に心にしまった。そうして、自分の存在(声)を通して、それを外の世界に放ってみた・・・。これが、奈保子さんの音楽のやり方だと、私は理解します。シンプルに言えば、「きれいな心の発露」。

極論かもしれませんが、そこから出てくる音楽は、半分くらいは奈保子さん固有のものであっても、もう半分はもはや「河合奈保子」を超えた普遍的・抽象的な何かになっています。良い音楽があるとすれば、ジャンルを問わず、そういうものであろうと私は思っていますが。(奈保子さんはご自分でそのことをよくわかってらっしゃるのだと思います。後期の自作曲ばかりのアルバムには、ちょっと極端な方向に走っているものもあって、ファルセットばかりの無表情な歌が詰まった「Calling You」や「ブックエンド」では、もう歌い手としての「河合奈保子」の一切を消し去ろうとしているかのようです。この潔癖性は、2006年に発表された歌のないアルバムの予告なのかもしれません。)

閑話休題。奈保子さんソロの1番が終わると、カメラが奈保子さんの右背後に切り替わり、向い合せになったもう1台のピアノ越しに五輪真弓さんを映し出します(けっこうカメラワークが凝っていて、これはこれで楽しめるのです)。そして、2番の前半を五輪さんが歌い、後半(サビ)はまた奈保子さんがソロで歌います。この時は、さすがの奈保子さんも五輪さんの歌い方にちょっと影響されています。奈保子さん、素直ですね(笑)。1番と2番の比較は、奈保子さんの音楽への取り組み方を考えるうえで、とても面白いと思います。

その後、サビのリピートとなり、その前半をデュエットで、後半を五輪さんが歌います。おそらく一般の視聴者は、最後を一人で締めくくる五輪真弓さんが“おいしいところ”を持って行った、と感じることでしょう。「五輪真弓はさすがね」というオバサマ方の声が聞こえてきそうです。五輪真弓が、五輪真弓の歌を、五輪真弓に対して一般の人たちが抱くイメージそのままに、つまり五輪真弓でしかやれないような独特の節回しで歌うのですから、当然と言えば当然ですね。しかし、あえて言いましょう。確かな耳を持つ人ならば、前半の河合奈保子の紡ぎ出す音楽にこそ心を奪われるであろう、と。次元が違うんですよね、音楽の。奈保子さんのは、もう、人間の口から発せられる音楽ではなく、天上から音楽の女神が舞い降りてくる類いのものです。だから、比べること自体がナンセンス。

ネット上に転がっている、さだまさしさんとの「道化師のソネット」、中森明菜さんとの持ち歌交換(明菜さんが「スマイル・フォー・ミー」を、奈保子さんが「スローモーション」を歌っている)、その他のカバー(「聖母たちのララバイ」「待つわ」「鳥の詩」「秋桜」など)も、今まで述べてきたようなことを確認するに、とても貴重な材料となっています。奈保子さんのオリジナル曲を聴くだけだって、とても素晴らしい体験ですが、他の歌手と比較することによって、より明確に見えてくることだってあります。今、私は、奈保子さんが1枚でも2枚でも、カバー曲でアルバムを作ってくれていたら、どんなに素晴らしかっただろうかと想像しています。


























































※ 2014428日の記事を編集して、こちらにも掲載しました。